中丸子西町のご案内
多摩川と神明大神
「中丸子」は、その昔、多摩川対岸の「下丸子」と陸続きでした。
この地域の歴史は、”暴れ川“と呼ばれ、何度もその流れを変えた多摩川の歴史と共にあります。
昔の地図を見ると、府中街道の宮内辺りから対岸の亀甲山(かめのこやま)崖下辺りまで向い、崖に当たった流れは向きを変え東の方向に流れて山王日枝神社の南側から南東へ流れ、元不二サッシの工場とNEC日本電気・玉川事業所の間を東へ流れを変えて、町会事務所と旧妙摩ホテルの渕を流れて西稲荷社裏辺りを流れていました。そのため、旧妙摩ホテル裏側が崖状に少し高くなっているのです。
台風19号で浸水被害のあった辺りは多摩川の本流であったため今でも低地で水害になり易い場所なのです。(川崎市水害ハザードマップに記載)
当西町会も面している、神明大神社(中丸子神社)は、古くからこの地域の中心であり、秋季例大祭では、宮神輿が中丸子全町会を渡御します。
神明大神は安土桃山時代の頃から村の神社として存在し、江戸時代初期の1656年に本社が創建されました。
また、同じ頃、暴れる多摩川の水を安定して供給するために二ヶ領用水が敷かれ、ここから田畑への用水路が多くひかれていたため、この辺りは、水路がとても多い一帯でした。そのため、境内には大きな池があって、初夏には水神祭も行われていました。
近代になり、多摩川河川での砂利掘削が盛んに行われました。近代日本を作るため、多くの砂利が必要でした。そして、奥多摩地方の山からはセメントの原料となる石灰石が南武線の線路を使い貨物列車で京浜工業地帯へ運ばれたのです。70年位前の多摩川は綺麗な川で夏になると親の背中に負ぶされて対岸まで泳いで渡れました。そして川の中は多種多様な魚が泳ぎ中でも鮎が遡上する清流でした。
下沼部小学校の校歌にも歌われる♪多摩の流れの 川べりに そよぐ 朝風 心地よさ♪ でしたが、東京側・川崎側の人口も増え、工場が多く建つようになると、下水や廃液が垂れ流されました。東急東横線が多摩川を渡る際に車窓から下を見ると、ダムの所に洗剤の影響で泡が風に吹かれて飛ぶ景色が有名になったこともありました。
のちに、これらは工業用水路と役割を変えましたが、多摩川の水難防止祈願もあり、水神祭が当時は一番の行事でした。
多摩川は何度も氾濫を起こしており、たまりかねた住民が県庁に集結、直訴した「アミガサ事件」の後、中丸子から上丸子にかけて「有吉堤」が築かれました。西町会のちょっと多摩川寄り、下沼部小学校の前を通るバス通りが、当時の有吉堤です。有吉堤竣工100周年記念碑が、中丸子児童公園内にあります。
多く存在していた用水路も、今は埋められたり、下水道となっています。この地域に、緑道が多く存在するのもこのためです。町会事務所のある資材置き場の下にも流れており、昔“新堀”とよばれ、上流にあった味の素の工場からの廃液(緑色や黄色)が流れていました。そして、とても臭かったのでした。今は暗渠で見えませんが、当時の新堀には公害に繋がる廃液を毎日々垂れ流していたのでした。
また、南武線向河原駅と平間駅の間に「武蔵中丸子」駅がありました。南武線は、多摩川の砂利を運ぶのが当初の目的でしたが、その需要も減り、セメント原料の運搬と、沿線にできた多くの工場の通勤客を載せる路線として発展。武蔵中丸子駅と向河原駅の間には、日本電気の敷地内に引き込み線もありました。「いこいの家」近辺にその面影が残ります。
戦争と共に軍事工場化していた日本電気は攻撃対象とされ、1945年4月15日の川崎大空襲により、「武蔵中丸子」駅は焼失。町内にも多くの犠牲者が出ました。古老に聞いた話では、日本電気の上工場(現、横須賀線武蔵小杉駅改修工事現場付近)には、探照灯の光が暗闇の空に向け照射されてアメリカ軍の戦略爆撃機B29に向けて高射砲が打たれたのですが、高度が高く飛行しているため、弾が届かなかったそうです。
西町会の成り立ち
戦時中に国家指導で出来た全国の町内会は、戦後GHQによって解体となりましたが、地域で協力しあって街を良くする必要性は再認識され、すぐにまた復活する動きとなりました。そんな中、中丸子西では、社宅中心に組織された橘町会、親和会、新興住宅街となった共明会の素早い復活に遅れを取り、残った地域が西町会として正式に発足したのは、昭和34年のことでした。
これら4町会は、街の改善を遂げるには、それぞれが少し規模が小さかったため、中丸子西連合町会として、昭和35年に、町会の上部組織を発足させました。以後、昭和46年に連合町会が解散されるまで、様々な協力事業を成し遂げました。
中でも、昭和39年に、それまで中丸子中町会の若草子ども会から独立して中丸子西子ども会(現在の中丸子みゆき子ども会)を発足させたのは、子どもたちを大事に育てたいという、この地域の方々の並々ならぬ想いが形になったものでした。
連合町会解散の際も、子ども会だけは、そのままの協力体制を維持することとなり、親和会がその後橘町会に合併したものの、現在もこれが続いています。
温泉
町内に、その昔温泉があったことをご存知でしょうか?
昭和40年開業、「中丸子温泉 花野湯」。
この辺りは、掘ればどこでも黒湯の温泉が出ると言われ、
区内にも、黒湯温泉を持った銭湯がまだ幾つか残っていますが、その一つでした。
ちなみに数年前まで、隣町の市ノ坪には、「トキワ健康ランド」がありました。
その後、花野湯は、温泉を残した形で、「ビジネスホテル妙摩」となり、今は、ワンルームマンションとなっています。
御幸踏切
府中街道側の町内と、西町会に挟まれる形の橘町会の間にある幅広の踏切は、御幸踏切です。御幸踏切の遮断機辺り、NEC日本電気側に小さな祠があります。中には風化した石仏が安置されて馬頭観音であるらしいのですが、いつ頃建立されたかは不明です。古老の話では軍馬を乗せた貨車がアメリカ軍の爆撃機か戦闘機に狙われ機銃掃射され多くの馬が亡くなったので、その馬を弔うために建立されたと伺いました。この一帯は今の川崎駅近くまでが、明治の頃、「御幸村」でした。何故、御幸と云うかわかりますか?
江戸幕府が倒れ明治維新が出来ると、それまでは京都に住んで居た天皇が江戸城(現、皇居)に移ることになり、東海道(現、15号線)を東京(呼び名を、とうけい と云った)に向かう際に、東海道・川崎宿に到着しましたが、先に云ったように、多摩川は暴れ川であり、架けても架けても流されるため、六郷橋の所は平船による渡船でした。天皇に平船に乗ってもらうには恐れ多いと云うことから、明治政府の命令で川崎側の河川敷から東京側の六郷河川敷までを平船を建てに並べ、その上に長い板を敷、馬車で渡河しました。天皇が行幸(ぎょうこう)した村だから名前が「行幸村(ぎょうこうむら)が変じて御幸村(みゆきむら)となったようです。」西町会の子どもたちが通う下沼部小は、玉川小から分かれたものであり、その玉川小は御幸小から分かれて出来ました。
「御幸」の名前は、橘町会、共明会と合同で町会から独立している、「中丸子みゆき子ども会」にも引き継がれています。
秋のお祭りでは、西町会の町会神輿と山車は、二つの飛び地を行き来するために、この踏切を渡ります。幅が広いうえに、電車もたくさん通り、この踏切を神輿と山車が渡るのは、なかなかに大変です!
武蔵小杉新駅ができる前は、ここは、横須賀線と貨物しか通っていなかったのですが、その後、様々な電車が乗り入れて通るようになり、「開かずの踏切」と化しているため、年々、神輿渡しも困難を極めています。
子どもたちの安全を考えて、通学にはここを通らないこととなっているので、町会の一部の子どもたちは、大周りをして、小学校に通っています。
そして、この踏切には跨線橋(歩道橋)があります。
この跨線橋からは、様々な電車の迫力ある姿を見ることができ、また、脇を通る新幹線も良く見えるので、電車好きなちびっ子たちには絶好の場所です!週末には、お子さん連れたパパママ、じじばば、がたくさん集まる、全国でも指折りの場所になっているようです。
この跨線橋、ちょっと前までは、不透明な壁で覆われており、透明な壁に変わった今と比べると、そこまで見晴らしは良くなかったのですが、防犯上の問題もあり、犯罪が起きにくいように透明な壁に置き変わりました。また、その際に、屋根もある程度つきました。
いつかは、この踏切が丸ごと地下に埋まるか、陸橋となって、自由に行き来ができるようになるのが、この地域の住民の切なる願いです。
1灯式の点滅信号機
御幸踏切からまっすぐ多摩川に向かっていくと、南武線踏切を超えたところ、ヤマザキデイリーストア(ことぶきや)のある交差点に、1灯式の点滅信号機があります。
片方は一時停止を促す、赤の点滅。
もう一方は、注意して進め、を意味する黄色の点滅。
このタイプの信号機は、1984年に福岡で生まれてから全国に広がりましたが、この数年で、ほとんどが撤去されている、絶滅危惧種です!
お祭りでは、この信号機を通る宮神輿を、西町会の町会神輿と山車がやり過ごすのが通例になっています。1年で、この交差点が一番賑わう日です。
この信号機を作った信号器材さんが、町内にあるのは、とても縁深いですね。数年後には撤去されてしまうそうです。
まるっこ公園
中丸子西町会は、南武線よりも多摩川側と横須賀線より府中街道側に飛び地していますが、この綱島街道側の憩いの場所となっているのが中丸子まるっこ公園です。
まるっこ公園周辺は、以前は不二サッシの工場を中心に今も残る中小工場の集まった工業地域でしたが、武蔵小杉周辺再開発により、今の形となりました。多くのマンションが建設される中、その中心に大きめの公園ができることは、この地域の住民にとってとても嬉しいことでした。
公園内には、当初、幹回りが2m程あるとっても大きなクリスマスツリーのようなシンボルツリーがありました。公園全体の木陰を作ってくれていたのですが、残念ながら、2018年の台風で薙ぎ倒されてしまい、今はもうありません。
公園の端には、町会の防災倉庫も建てられています。公園の管理は、区から町会が委託されており、定期的に住民で清掃を行っています。秋祭りの子ども神輿・山車の渡御では、休憩所としても使われることもありました。今でも、夏休みには子ども会のラジオ体操で使われたりしていますが、倉庫が設けられたことで、今後は、まるっこ公園を使った町会イベントなども期待されます。
コスギタワー、リエトコート公開空地
フジサッシ跡地に出来た3つのタワーマンションの周辺緑地です。都会のオアシス的な緑豊かな場所は、公開空地のため、誰でも通れる場所になっています。夏は、思いっきり蝉が鳴き、いろんな野鳥も訪れる場所は、エリア的には町会の地域内にあるため、日頃の感謝を込めて、祭りの際には、マンションの目の前を町会神輿が渡御します。